Summary

  • 長谷部のブンデスリーガでのキャリアを回顧
  • これまでウォルフスブルク、ニュルンベルク、フランクフルトに在籍
  • ウォルフスブルク時代にはブンデスリーガ制覇も経験

アイントラハト・フランクフルトの長谷部誠が3月5日のフライブルク戦でブンデスリーガ通算235試合出場を達成し、奥寺康彦氏が保持していた日本人最多出場記録を31年ぶりに更新した。チームは1ー2で敗れたが、長谷部はゲームキャプテンとして最後まで攻守に奮闘。試合後は敗戦を悔やみながらも、「今までサッカー選手として突き詰めてやってきた部分はあるので、それが結果や記録として評価されるのはうれしい」とブンデスリーガ在籍10年目での偉業を喜んだ。「いい時だけでなく、そうでない時も経験してきた」——。本人がそう語るドイツでの歩みを振り返る。

ドイツ移籍2年目でマイスターシャーレを獲得

2002年に浦和レッズでキャリアをスタートさせた長谷部は、2006年のJリーグ優勝、2007年のAFCチャンピオンズリーグ制覇など数々のタイトル獲得。「環境を変えることで成長したい」との思いから2008年1月にウォルフスブルクへ移籍した。加入早々の2月、敵地でのビーレフェルト戦で後半開始から出場してブンデスリーガデビュー。左ボランチに入った長谷部は、相手FWに激しいタックルを浴びせ、攻撃時には的確なパスを出してチームの勝利に貢献した。

長谷部のブンデスリーガデビューは2008年2月2日のビーレフェルト戦。すべてはここから始まった © imago / Team 2

続くデュイスブルク戦で移籍後初先発を果たすと、以降はコンスタントに出場機会を獲得。シーズン途中の加入ながら1年目はリーグ戦16試合に出場した。4月のレーバークーゼン戦では待望のブンデスリーガ初得点をマーク。味方のクロスに飛び込んで相手DFと交錯しながら押し込んだ泥臭いゴールは、日本でテクニシャンとして鳴らした長谷部の“変化”を暗示するものだった。

浦和時代は攻撃的MFを務めることが多かった長谷部。しかし、ドイツではポジショニングの良さや献身性を買われ、いつしか中盤の守備的なポジションが彼の定位置になっていった。フェリックス・マガト体制下では右MFとして起用されることも多かったが、その役割はウイングではなく、主に相手のサイド攻撃を封じること。長谷部はその起用法に応えるように、活動量を増やし、フィジカルを鍛え、1対1や球際の強さに磨きをかけていった。

規律を重んじるマガト監督に堅実さや練習に取り組む姿勢を評価されていた長谷部は、翌08/09シーズンもレギュラーの座をがっちりと確保。守備的MFや右MF、さらには右サイドバックと複数のポジションをこなしながらプレーの幅を広げていった。このシーズンのウォルフスブルクはグラフィッチ&エディン・ジェコの2トップ、トップ下のズベズダン・ミシモビッチが攻撃をけん引し、2月からリーグ10連勝を飾るなど優勝争いをリードする。長谷部は代表戦で負ったケガの影響で4月から6試合の欠場を余儀なくされるが、シーズン終盤の第32節に戦列復帰。第33節のハノーファー戦では正確なクロスで2アシストを記録して優勝に大きく前進する勝利をもたらした。

ウォルフスブルクはブレーメンとの最終節にも5ー1で快勝。バイエルン・ミュンヘン、シュトゥットガルトとの三つ巴の争いを制してクラブ史上初のリーグ制覇を成し遂げた。長谷部は最終節も先発フル出場。奥寺氏以来、31年ぶりにマイスターシャーレを掲げた日本人選手となった。

ドイツ挑戦2年目でブンデスリーガのタイトルを獲得。長谷部は主力として優勝に貢献した

翌09/10シーズンには日本人5人目となる欧州チャンピオンズリーグに出場。シーズン途中の監督交代劇もあってチームは中位に甘んじたが、長谷部はリーグ戦24試合に出場して1ゴール6アシストと安定した成績を残した。さらに日本代表では南アフリカ・ワールドカップ直前にキャプテンに就任。この時まだ25歳だったが、ドイツで揉まれた長谷部はすでにベテランのような存在感を漂わせ始めていた。

>>後編に続く