- © © Takehiko Noguchi
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先駆者が語るブンデスリーガ(前編)

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奥寺康彦氏がブンデスリーガ初の日本人プレーヤーとしてドイツに渡ったのは1977年10月。1993年にJリーグが誕生する十数年も前のことだ。奥寺氏はケルン、ヘルタ・ベルリン、ブレーメンに在籍し、9年間にわたってドイツで活躍。ブンデスリーガ通算出場数は234試合にも上る。それから約40年の時を経て、アイントラハト・フランクフルトの長谷部誠がブンデスリーガ通算235試合出場を達成、奥寺氏が長年保持していた日本人選手の最多出場記録を塗り替えた。今回の記録更新によって改めてクローズアップされた奥寺氏の偉業を本人の独占インタビューで振り返る。

バイスバイラー監督との出会い

——まだJリーグさえなかった時代、ドイツのブンデスリーガでプレーするきっかけは何だったのですか?

奥寺 日本代表がドイツに遠征して、向こうでトレーニングや練習試合をする機会がありました。当時の代表監督だった二宮寛さんはケルンの(ヘネス)バイスバイラー監督とすごく仲が良くて、そのツテを使って練習場を確保したり、試合の相手をアレンジしてもらったりしていたんです。今では考えられませんが、日本代表選手が5人一組に分かれてブンデスリーガの各クラブのサマーキャンプに参加しました。その時に僕が参加したのがケルンのキャンプだったんです。ドイツ人に混ざって練習する中でプレーを気に入ってもらって、それで「来ないか?」と誘いを受けました。

——実際にケルンに加入したのはシーズンが始まった後の1977年10月でした。この時期まで加入がずれ込んだのはなぜですか?

奥寺 これはいかにも日本人的な考え方なんですが、僕の日本リーグでの通算出場数が100試合まであと2試合だったんです。「ドイツに行くのは100試合を達成してからでも遅くないんじゃないか」ということでクラブに問い合わせたら、「それでも構わない。終わってからでいいから来てくれ」と言ってくれた。そういう理由で10月までずれ込んだんです。

——ドイツ行きに関して迷いはなかったですか?

奥寺 迷いましたね。当時25歳で、結婚もしていました。サッカーに関して迷いはなかったんですが、家族のことを考えると、ドイツに住むということに少し躊躇があった。今のように簡単に行き来できる時代でもないし、言葉の問題もある。向こうで家族に何かあったらどうしようという不安はありましたね。

——そういう中でドイツ行きの決め手となったのものは何ですか?

奥寺 やはり、バイスバイラー監督が必要としてくれたことです。「レギュラーとしてプレーしてほしい」、「すぐに来てくれ」と言ってもらえましたから。

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