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レバンドフスキはいくつかの挫折を乗り越えてバイエルンのエースに上り詰めた - © © DFL DEUTSCHE FUSSBALL LIGA
レバンドフスキはいくつかの挫折を乗り越えてバイエルンのエースに上り詰めた - © © DFL DEUTSCHE FUSSBALL LIGA

レバンドフスキのキャリアを振り返る

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「プロサッカー選手として成功したいのなら、もっとベーコンサンドイッチを食べろ」。そう言われるほど少年時代のロベルト・レバンドフスキは線の細い子どもだったという。だが、彼はほとんど自分自身の力だけで現在の地位まで上り詰めた。細い体で貪欲にゴールを重ね、バイエルン・ミュンヘンとポーランド代表のレジェンドとなったのである。

前途多難だったキャリアのスタート

レバンドフスキの父、クリストフさんはポーランド国内の柔道チャンピオンで、サッカー選手としてもポーランド2部でプレー。母のイボナさんはバレーボールのプロ選手だった。そのような家庭環境で育ったレバンドフスキには常に家族の応援があった。本人は10代の頃を、「僕は小柄ですごく痩せていた。小さすぎるからみんなにプロサッカー選手になれないと言われた」と振り返るが、身体的に劣っていたとしても、素晴らしい遺伝子とサッカーに対する真摯な姿勢でそれを乗り越えてきたのである。

ポーランド代表のジュニアチームでレバンドフスキを指導したクシュシトフ・シコルスキが当時のことを話してくれた。「足がものすごく細かったので、体重を増やすように、もっとベーコンサンドイッチを食べなさいと言い続けました。でも、体格に関係なく、大量点を奪っていましたよ。私たちのチームは1シーズンに158ゴールを挙げたことがありますが、その半分はレバンドフスキの得点でした」

レバンドフスキはユース時代をワルシャワで過ごしたが、2005年にレギアから契約解除を言い渡される。彼は打ちのめされたが、長く自己憐憫に浸ることはなかった。ワルシャワ郊外のクラブ、ズニチェ・プルシュクワに加入し、そこでキャリアの土台を築くことになる。

レバンドフスキは3部の得点王に輝き、クラブを2部に昇格させた。さらに2部でも得点王になってクラブの1部昇格に貢献している。古巣のレギアは彼の獲得に動こうとしたが、当時のスポーツディレクター、ミロスロフ・チェチャクは「テネリフェからミケル・アルアバレーナを獲得するのだからこんな選手は必要ない」と移籍話を却下。これが後に有名なセリフとなる。

アルアバレーナがレギアで6試合ノーゴールに終わる一方、レバンドフスキは移籍先のレフ・ポズナンで2年目に18ゴールを挙げて得点王に輝き、チームをリーグ優勝に導いた。ポズナンのフランチシェク・スムダ監督が2年以上前に行ったスカウティングで「木みたいだ」と言われた選手としては、悪い結果ではないだろう。

ドルトムントで複数のタイトルを獲得

ブンデスリーガのドルトムントに移籍した後も、レバンドフスキは活躍を続けた。加入1年目でリーグ優勝に貢献すると、2011/12シーズンにはリーグとドイツサッカー連盟カップ(DFB杯)の二冠を達成。さらにその1年後には、初のブンデスリーガ得点王に輝くともに、欧州チャンピオンズリーグ準決勝で4得点を記録した初の選手となった。

「過去20年間で、ポーランドが産んだ最も素晴らしい選手だとすぐに分かった」。ドルトムントで彼を指導したユルゲン・クロップ(現リバプール監督)はそう語っている。「素晴らしい潜在能力があったので、正しい姿勢で臨めば簡単に成長できると思った。そして、その通りになった。彼がトップに上り詰めたいと思っていたことははっきりしていたし、私にはそれで十分だったよ」

クロップはこうも話している。「彼はストライカーに必要なスキルをすべて備えている。特にフィジカルの強さとフィニッシュの能力はずば抜けている。一方で、才能あるMFのようなテクニックも持っている。中盤でボールを受けて、ウイングにボールを供給する。まるで司令塔を見ているようだね。ボールはレバンドフスキの友達だよ」

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