大迫勇也が所属するケルンについて紹介する。

1、栄えある初代チャンピオン

ブンデスリーガが創設された1963/64シーズン、ケルンは全30節で78ゴールという爆発的な得点力で初代王者の座を射止めた。翌シーズンはあと一歩のところで優勝を逃したが、堂々の2位となった。さらなる栄光が訪れたのは1978年、名将ヘネス・バイスバイラー監督の下、ブンデスリーガとドイツサッカー連盟カップ(DFB杯)で二冠を達成。この優勝メンバーには奥寺康彦の名が刻まれている。

2、ロッテルダムのコイントス

1964/65シーズン、ケルンはドイツ王者として欧州カップ(現欧州チャンピオンズリーグ)に出場した。準々決勝のリバプール(イングランド)戦、ホームでの第1戦はケルンが優勢だったが、0-0で引き分けた。敵地での第2戦は、大雪のため試合開始15分前に延期が決定。2週間後にようやく第2戦が行われると、ケルンの守護神アントン・シューマッハーがリバプールの猛攻を防ぎ、この試合もスコアレスに終わった。2試合を終えても決着がつかなかったため、1965年3月24日、中立地のロッテルダム(オランダ)でプレーオフが開催された。2点をリードされたケルンだったが、後半開始直後に同点に追いつく。そのまま2-2で90分が終了し、30分の延長戦が行われるもスコアは動かなかった。当時の欧州サッカー連盟はPK方式を採用していなかったため、コイントスにより勝者を決定することに。実際、コインではなく片面が白、もう片面が赤の木製の円形状のものが使用されたのだが、主審が投げたそれは縦に落下し、芝生に突き刺さった。2度目のトライで表に出たのは、ケルンが選んだ白ではなく、リバプールが選んだ赤だった。こうしてもつれにもつれた熱戦はようやく終止符が打たれたが、ケルンは涙を呑むことになった。

3、雄ヤギのヘネス8世

ケルンのマスコットと言えば、雄ヤギのヘネス君。1950年、あるサーカスの団長が「クラブには幸運のお守りが欠けている」と、一頭の雄ヤギをプレゼント。これを受け取ったケルンのフランツ・クレーマー会長は、当時、選手兼監督を務めていたヘネス・バイスバイラー氏の名前を取って、「ヘネス」と名付けた。以後、現在まで8頭のヘネス君がその役割を担っている。

4、奥寺康彦

1977年、そのバイスバイラー監督に見出され一人の日本人が海を渡った。日本人ブンデスリーガー第1号の奥寺康彦氏だ。日本でプロサッカーリーグ(Jリーグ)が開幕する16年前、世界最高峰のリーグに挑んだ同氏はレギュラーの座をつかみ取り、1年目でブンデスリーガとDFB杯の優勝に貢献。ケルンでは3年間で75試合に出場、15得点を挙げた。ブレーメン時代も合わせると、ブンデスリーガで234試合に出場。現在までブンデスリーガには計27人の日本人選手が所属してきたが、歴代1位の記録となっている。2016/17シーズン、長谷部誠(アイントラハト・フランクフルト)がこの記録を塗り替える可能性もあるが、「プレーしている時代が違うので簡単に比較もできないと思う。自分は例えその数字を抜いたとしても、奥寺さんのファーストインパクトには敵わない」と話している。

5、カーニバル

「カーニバル」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか? おそらく日本でより有名なのは、サンバのリズムに合わせて派手な衣装で踊る「リオのカーニバル」かもしれない。ドイツのカーニバルはそれとは一味違うが、お祭り騒ぎという点では全く引けを取らない。むしろ、ヨーロッパの中では“お堅い”イメージを持たれているドイツで、その羽目の外し加減は常軌を逸していると言える・・・。ドイツの3大カーニバル都市と言われるのがケルンとマインツ、デュッセルドルフだ。ケルンでは2月の約1週間、街には仮装をした人々があふれ返り、どんちゃん騒ぎをしている。もちろん、FCケルンも例外ではなく、クラブは毎年、カーニバル用の“ふざけた”ユニホームを用意。「郷に入っては郷に従え」で、大迫勇也も仮装して練習に参加している。