ブンデスリーガ2部アウエ、異色の日本人選手の素顔(1)

ドイツでプレーする日本人選手の姿も、ここ数年でめずらしいものではなくなった。何かと脚光を浴びる1部の日陰的存在になりがちだが、2部でしのぎを削る選手たちもいる。昨夏からボーフムでプレーするのは、元J1川崎フロンターレのMF。今季は背番号10を背負い、チームの要として活躍する。半年遅れでドイツ南部のアーレンに加入したFWは、元J2東京ヴェルディ。そしてことしの夏、彼らとは一線を画した異色の経歴を持つ日本人選手が新たにやってきた。

チェコとの国境近くに位置する旧東ドイツの名門チーム、エアツゲビルゲ・アウエが今夏、クラブ史上初めて日本人選手を獲得した。DF、25歳の元Jリーガーだ。前所属はモンテネグロ1部リーグFKムラドスト・ポドゴリツァ。今夏出場したUEFA欧州リーグ(EL)予選での活躍がきっかけとなり、アウエへの移籍が決まった。

物腰柔らかで人当たりの良い好青年。初対面ではそんな印象を与える。しかし穏やかな語り口調のなかにも、どこか一途な性格が見え隠れする。彼が歩んできたこれまでの道のりを知れば、そういった一面にも納得がいく。ブンデスリーガ2部との契約へたどり着くまでには、ことばにするように簡単にことが運んだわけではない。何度も挫折し、苦しみ、学び、そして成長してきたのがサッカー選手・石原卓である。

あこがれのJリーグ入りと挫折


5歳上の兄の影響でサッカーを始めた石原は、名古屋グランパスエイトジュニアユースを経て中京大中京高へ進んだ。卒業後の2007年に横浜F・マリノスに入団し「子供のころからあこがれていた」Jリーガーになった。同期には現アイントラハト・フランクフルトの日本代表MF乾貴士や、Jリーグ東京FCで活躍する長谷川アーリアジャスールがいた。しかし「彼らに比べれば下手だったし、『自分は自分だ』って下手なことを認めようとしなかった」という石原のプロ生活は、J2徳島ヴォルティスへの期限付き移籍を経て、2シーズン目での戦力外通告という形で幕を閉じた。

「自分の中では最大限努力したつもりだったし、まあ甘かったんですけど、結果論からすれば。20歳そこそこの限界って本当は限界ではなくて。いま思えばバカだったなあって。そんなの当たり前だよってことを、当時の僕は努力だと思ってた」。

プロの世界の厳しさを思い知らされ、次に選んだのは大学サッカーという道だった。

大学進学、そして海外へ


「高卒2年目でクビっていう状況になって、将来的な不安を感じずにはいられなかった。親も目に見える資格を取ることを望んでましたし、サッカーもできるしってことで、自然に決まったって感じでしたね」。

資格を取るという明確な目標と、両親の後押しもあり20歳で中京大に入学。1年生から主力として活躍したが、2年生になるとベンチを温める時期も。上級生になれば今度はけがとの戦いが待っていた。3年時には骨折によって離脱、4年生の春には足首じん帯の手術を受け、9月にようやく復帰を果たした。そしてインカレも終わり進路を決める時期になったが、国内のチームからは誘いがかからず。体育教師になることも考え始めていたという。

「一番サッカーをやめようと思ったのは、モンテグロ行く前ですよね。ストレートに大学行ってるわけでもないですし、年齢も年齢だったんで。真剣に、サッカー辞めてちゃんと働かなきゃいけないかなあって考えてました」。

背中を押した父の言葉


そんなとき、知人を通じてモンテネグロのクラブがトライアウトを行うことを知った。しかしそう簡単に下せる決断ではない。モンテネグロがどんな国かも分からない。それでも、まだまだサッカーをしたいという強い気持ちがあったのは確かだ。

「まともに1シーズン出てないんですよね、高校を卒業してから。横浜では試合に出れず、大学も4年間で2年分ぐらいしかサッカーしてない。やっぱどこかで未練があったんでしょうね」。

そこへタイミング良く入ったトライアウトの話に心が動いたのは、ごく自然なことだったのかもしれない。周囲にも相談し、最終的に背中を押してくれたのは父の言葉だった。「就職しようと思ったら、いつだってできるんだぞ」。このひと言で気持ちは決まった。初の海外、そしてプロ再挑戦へ向けて旅立ったのは、ことし1月のことだった。

モンテネグロではムラドストの練習に参加。1週間ほどでクラブは獲得の意思を表示した。1カ月後、正式に1年の契約をかわした。

「1週間が長く感じましたね、そのときはさすがに。サッカーでやっていけるかどうかの瀬戸際だったんで」。

さらにここから半年間のモンテネグロ生活は、葛藤の毎日だった。サッカーの違いには大きく戸惑った。「こういうサッカーもあるんだ」。自分の中での常識は、そこでは常識ではなかった。求められているものは何なのか、どういったプレーをするべきなのか。言葉の通じない環境で外国人選手として周囲を納得させるためには、「何か」を起こす必要があった。

「よく聞くじゃないですか、『ようするに、点取ればいいんだよ』とか。練習参加中、紅白戦で1点取っただけでパスが回ってくるようになったのを実感したあたりから、『ああ、こういうことかぁ』と。その感覚をつかむまでが大変でした」。

「偶然が重なって」届いたオファー


所属したムラドスト・ポドゴリツァは上位クラブの不祥事によって、EL予選繰り上げ出場が決まった。そして「たまたま出た4試合でいい活躍をして、たまたまその4試合を今(アウエ)の監督とかスタッフが見てくれて、たまたま見に来てくれた試合で点を取って。いろいろな偶然が重なって」(石原)ドイツからオファーが届いたのは、EL3回戦セビージャ(スペイン)戦を目前にしたある日のこと。練習後にドイツ2部のクラブからオファーがあると聞かされ、実際にドイツへ旅立つまではそこからたったの2時間という激動の1日を過ごした。

「こっちとしてはセビージャ戦出たいし(笑)、事務所がクラブに交渉してみるって言ってくれて。とりあえずどうしたらいいですかって聞いたら、『荷物だけまとめといて』って。渋々スーツケースに服詰めてたら『2時間後の飛行機でドイツ行くことになったから、1時間後に空港行って』って電話があって。で、飛行機飛び乗ってその日のうちにドイツに来ました」。

アウエに到着するとすぐに契約書にサイン。石原の言葉を借りれば「棚から落ちたぼた餅を、床から1cmくらいのところですれすれでキャッチ」し、ブンデスリーガ2部との契約を勝ちとったのである。

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Yukiko Sumi (鷲見由希子)